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=院長日誌補足=
「院長の知られざる過去」
2001/08/31 (金)

同人誌
 本当は今月一杯で「生い立ち」を書ききるつもりだったのだが、そう簡単に書ききれる生い立ちではなかったようである。

 そんなわけで、高校はちょっと勉強、あとはプラプラ遊んでばかりであった。
 しかも確か3年の時である。ほんの遊び半分だったのであるが、高校の同級生何人かが集まって「同人誌」を作るということになった。

 そのスターティングメンバーに誘われ、僕もささやかな小説をいくつか書いた。いや、今思えば小説と言えるようなシロモノではなかった。あと、表紙も書いた。

 表紙と言えば、生物部の部誌の表紙も3年間、いや卒後も頼まれて書いた。
 ちょっと絵心はあったのである。

 絵心は後々あるコトで役立つのであるが、それはまた後日に記載する。

 同人誌のメンバーは在籍する高校の枠を越えて広がり、同じ高校以外の友人もたくさんできた。今でもお付き合いがある友人もいるし、なかには江別という隣市からもわざわざ家族ぐるみで治療にかけつけてくれるありがたい友人もいる。

 そんなことばかりしていて、現役で大学に合格できるワケがない。
 ボクがどういう方面を受験し、そしてどのくらいの期間浪人していたかは恥ずかしくて書けないが、来月は浪人時代から現在に至るまでの経緯を書き綴ろうと思う。
2001/08/30 (木)

個性派揃い
 高校は変わったヤツが多かった。
 休み時間に「数学の問題集」をじ〜〜〜っと眺めているヤツ。何しているの?って聞いたら頭の中で問題を解いている、と言う。微分積分の問題を、である。
 ボクなんか、ノートに書き出してもなかなか解けなかったのに・・・

 彼は東大に現役合格した。アタマの構造が違ったらしい・・・

 休み時間に教室の後ろで腹筋するヤツ。
 休み時間に大声で発声練習するヤツ。(彼は合唱部だった)

 テストの時、腕時計代わりに「デッカイ目覚し時計」をドンと机の上に置くヤツ。
 物理のテストで答えを「励起状態」と書くべきところを「勃起状態」と書いてしまったヤツ。

 クラスの委員を一覧の紙にまとめて書くのに「防火委員」と書くべきところを誤って「放火委員」と書いてしまったヤツ。彼は担任にひどく怒られていた。
 ボクが通った高校は過去に何度か火災で焼失しているタメである。

 写真部の暗室で「ヤル」ヤツ。
 掃除道具を入れる木製ロッカーの中で喫煙するヤツ。

 進学校だからといってガチガチなヤツばかりではなかった。そんな中、ボクも「自分自身」を思う存分丸出しにできた3年間だったような気がする。
2001/08/29 (水)

生物部
 高校は楽しかった。今想いだしても、今までの人生のうちで、一番楽しかったような気がする。
 とにかく、何も考えていなかった。
 勉強も真面目にはしていなかった。

 特に部活が楽しかった。もちろん生物部なので、いろいろな小動物を採取にいったり、それらの素材を用いて実験をしたりしていた。もちろんその成果は学校祭で発表したり、年に一度発行する「部誌」で発表したりした。

 部員の連帯は強く、今でもOBのホームページが存在していたり連絡を取り合ったりしている。

 正月には近くの山に深雪の中「ご来光」を拝みに行き、4月には「新入生歓迎遠征」と称して、随分の距離をハイキングにでかけたり、夏になるとプラナリヤやザリガニを求めて沢に入ったり、秋になるとコクワを採りに山にでかけた。
 学校祭が近づくと、海に行き、海の小動物を漁った。

 高校の中でも「活発な活動をし、また特異な連帯のある部」として名を馳せていたのである。

 そして、きまって昼休みと放課後は部室(生物教室)に集まり、何も活動がないときはトランプに興じていた。もちろん、真面目に実験、研究もしていたことはしていたが、遊んでいる時間の方が長かったような気がする。

 そして、「生きモノ」というものに潜在意識下で興味を示し、ゆくゆくの歯医者という職業に繋がっていったのかも知れない。直接の因果関係はないが・・・
2001/08/28 (火)

背伸び
 当時、中学校は荒れ始めていた。
 僕の通う中学の生徒が「模試」で他の中学の生徒に喧嘩を売ったとか、殴ったとか殴られた、そういうハナシもチラホラ聞こえた。

 また、授業中、授業に参加せず教師に隠れて遊んでいるヤツもいた。
 階段の踊場で「ゴム製の避妊具」を風船にして「バレーボール」に興ずる男女もいた。(当時、ボクはその風船の本来の目的を知らなかったので、なぜ、一箇所ポコっと膨れているのか判らなかった。また、随分薄いフーセンだなあ、と思っていたモノである)

 イジメもあった。もっともイジメもイジメラレもしなかったが・・・

 厳しい塾に通ったお陰もあってか、幸い「学区内」でトップの公立高校に潜り込むことができた。ただし、相当下の方の成績であったことと思う。

 思えば、かなり背伸びをしたものだった。
 と、言うのも、入学してからさっぱり勉強についていけなかったからである。

 本当はもっと真面目に勉強すればよかったのであろうが、一応目的の高校に入学できた、というだけで舞い上がっていた。

 舞い上がったついでに小学校の時からの「ボクの友人代表」に誘われるまま、「生物部」に入部してしまった。
2001/08/27 (月)

 中学時代は、あまり記憶に残るようなエピソードがなかった気がする。
 と言うより、あまり面白くなかった。

 どうも教師もいけ好かなかった気もする。

 ボクは母親から「人とハナシをするときは、そのヒトの目を見て話しなさい」と教えられてきた。

 美術か何かの先生だっただろうか・・・
 先生の目を見て話していたら、おもむろに「オマエ、ヒトのこと何にらんでるんだ」と言われた。
 確かにボクは目も悪く、ちょっと細いので、にらんでいるように見えたのかも知れないが、きっとその教師は「生徒から直視されてやましいことがあったに違いない」と思うことにした。

 あと、なぜか社会科の教師に目のカタキにされていた。
 後々理由はおぼろげに判ったのであるが、政治的配慮からここには書けない。

 それは親の問題もあるのだが、そもそもそういうことを生徒にブツけるのはお門違いだと思った。
 とにかく、まあ義務教育においては「いいこと」があんまりなかった。

 「出る杭は打たれる」まさにそんな3年間だったように思う。
2001/08/26 (日)

恐怖の塾
 中学3年になっても、そこそこの成績ではあったが、クラストップではなかった。
 3年の夏休みに塾に通わされた。

 最大級に「厳しい」と定評ある塾だった。
 弁当を二食持っていく。なぜなら、朝から夜「終電の時間」まで授業があったからである。

 塾の教室にクーラーはない。
 狭い教室に何十人も詰め込まれ、かなり暑かった。天井に据え付けられた「扇風機」が一応あったが、それは「ガード」がボコボコに変形していて、使い物にならなかった。

 なぜかって?・・・

 その塾の講師は「竹刀」を持っていた。
 そして、机の間を巡回しながら、生徒に問いを出し、答えられないと竹刀でアタマを叩かれるのである。

 竹刀を振り上げるとき「扇風機のガード」に竹刀が当たり、それでボコボコに変形していた、というわけである。

 特に、ボクが入ったクラスは「市内のトップクラスの高校を目指すコース」だった。
 塾長がそのコースの選任講師だったのだが、とりわけ厳しかった。
 また、怖い顔をしていた。
 あだ名を「ゴア」と言ったくらいである。
2001/08/24 (金)

ピアノ辞める
 小学校の時はほとんど勉強しなかったが、中学校ではさすがに勉強しないと授業についていけなくなった。

 変な表現だが、見よう見真似で勉強を始めた。でも、今思うと、エライ効率が悪い勉強だったと思う。
 それまであまり経験がなかったからである。

 その甲斐あってか、中学のクラスでは比較的上位にはいた。
 でも、それも下降線をたどる。

 中学2年の時、母親が、進路相談で「このままではあまり良い高校に入れない」というようなことを担任に言われたらしい。焦ったらしい。

 母はボクに「もっと勉強しろ」と言った。ボクは交換条件を持ち出した。
 「ピアノの練習が負担です。辞めたい」という主旨のことを言ったはずだ。

 折れるはずがないと思っていた母が折れた。
 そうして、ピアノは辞めることとなった。

 でも、それが良かったのか悪かったのか判らない。とりあえず、上から3ランク目くらいの高校も危ないと言われていたのに、学区でトップの高校を目指すことを命じられたからである。
2001/08/23 (木)

失恋
 小学校の時は女の子にモテて、中学校に上がったらモテなくなったハナシの続きである。

 恐らく小学校の時はまだコドモで「オトコ」とか「オンナ」ということを意識していなかったのであろう。
 それが性への目覚めで中学校に上がると、急に意識するようになったためではないかと自己分析する。

 また、周囲の女子の見る目も「スポーツのできるカッコいいオトコ」に対象の目が向くようになったのだろう、と思う。
 こうなると俄然、ボクは弱い。特段カッコいい風貌ではないし、モヤシのようにひ弱だったからである。

 相変わらずピアノは続けていたが、もはやアドバンテージにはなりえなかったようだ。

 中学3年間通して好きだった女の子がいた。
 付き合ってくれないか?と告白したが、見事に振られた・・・
 どうしてそういう表現をするのか判らないが、「甘酸っぱい」過去ではある・・・
2001/08/22 (水)

英語の壁
 実は中学校に上がって困ったことが起きた。
 ボクは小学校の時は、ほとんど勉強をしたことがなかった。まあ、勉強せずとも学校の授業に付いて行けた。

 ところが、中学校で初めて接する「英語」にちょっと戸惑ったのである。

 うちの親はあまり教育熱心ではなかった。
 小学校の時は勉強しろと言うことはほとんど言われなかったし、家で勉強するということがどういうことだか判っていなかった。
 勉強の「仕方」も判らなかった。

 父に英語をどうやって勉強したらいいか尋ねた。
 父は面倒臭そうに、買ってきたばかりの「英和辞書」の匂いをひとしきり嗅いだあと、AからZまでのインデックスの帯をマジックで書いた。

 こうやると辞書は使いやすいぞ、と言った。

 ・・・

 英語はその後も苦労する。今もってニガテである。まあ、学校での教え方の体系にも問題はあるとは思うが・・・
2001/08/21 (火)

道草
 小学校は歩いて10分くらいの距離だったが、中学校はちょっと遠かった。
 地下鉄駅にして二駅くらいあったと思う。徒歩25分を目安にしていた。

 中学校1年の頃、仲のよい友人何人かとよく「道草」を食いながら帰ったものである。
 どういう道草の食い方かと言うと、例えば、学校帰りの道で「交差点」に差し掛かったら、ジャンケンをするのである。
 予め「誰が勝ったら全員そっちの道に行く」と取り決めておく。全員が予め「勝ったら進む方向」を決めておくのである。

 おのおの自分の家に帰りたい方向に向かうので、ジャンケンに勝ちつづけると勝った人が一番で帰宅できる。
 負け続けると、どんどん自宅から遠ざかる。

 でも最後には自分一人残るので、最終的には帰宅できるという仕組みである。

 ひどい時は2時間くらいかけて帰宅したものである。
 でも足腰の鍛錬にはなったかな?

 今考えるとヒマなことをしていたものだ・・・
2001/08/20 (月)

黄金時代
 (ちょっと土日たて込んでおりまして、更新が滞ったことをお詫び申し上げます)

 さて、もうそろそろ小学校偏を終えたいのだが、ひとつだけ記載したいことがある。
 実は人生の中で一番「女の子にモテた時期」が小学校時代であった。

 理由は判らない。でも小学校の時は結構ガールフレンドがいた。中にはボクが病気で学校を休むと、自宅まで花を持って見舞いに来てくれる女の子もいた。

 小学校4年の時には、とある女の子が、ボクに「目ぇつぶっていて」と言うから、素直に目をつぶってナニをされるのかなあ、と思っていたら、いきなり頬にチュウっとされたこともある。学校の校庭で、である。

 スポーツは人生を通してからきしダメだったが、そこそこ勉強ができて、そして当時としては「ピアノが弾ける男子」というのがモノ珍しかったということもあったのだろう、と理解している。

 そんなボクも、なぜか中学校に入ると「全然モテないオトコ」になってしまうとは、当時予想だにできなかった・・・
2001/08/17 (金)

カメラ小僧
 カメラというものに非常に興味を覚えたのも小学校5年の頃であった。

 親のPENTAX ESIIというカメラを持ち出して、よく写真を撮っていた。
 当時としてはようやく自動露出が搭載された一眼レフであったが、それ以外は全て手動であった。そして小学生の手にはとても大きく、重いシロモノではあった。

 でもその頃以来のPENTAX党である。
 途中、NikonやCanonに浮気したこともあったが、やはり製品のポリシーはPENTAXの方に一日の長があったと思う。

 なぜなら、PENTAXは「アマチュアカメラマン」をターゲットにしていたからである。
 今でこそ方針は変わっていると思うが、NikonとかCanonといったメーカーは、プロ用の最高機種を作り、それ以下の機種は余力で作っているというイメージがあった。

 あと、PENTAXは絶えずその時点その時点で「世界最小最軽量」を謳った製品を出しつづけてきた。ライバルはOLYMPUSだったが、後にOLYMPUSは一眼レフ市場からほとんど勢力を撤退させてしまう。

 写真を撮ることも好きだったが、カメラのメカニズムもまた好きだったのである。
2001/08/16 (木)

嫌いな夏
 今ごろの季節は大嫌いである。
 暑いからではない。

 幼少時から続けてきたピアノであるが、決まって夏に「コンクール」があった。
 小学校高学年の頃は有無を言わさずこれにエントリーさせられた。

 実は人前で何かをする、というのが大の苦手である。ところがなぜか、その機会が多かった。小学校の学芸会の劇ではなぜか決まって主役を演じさせられた。別に自分で手を挙げていたわけではないのだが・・・

 小学校6年の時だったか、劇の中身は忘れたが「バカ殿」を演じた。

 先日ものすごい久しぶりに会った、小学校の時の同級生に「ああ、バカ殿を演じた辺見君ね」と言われ、ショックだった・・・

 ハナシを戻すが、そこそこに弾けても大勢の前に出ると「アガって」しまい、後でナニをどうしたかさっぱり覚えていないのであった。
 そんなわけで、今頃の季節は未だに嫌いなのである。しまいには季節が夏に近づくだけで具合悪くなったものである・・・

 もちろん極度の緊張でアガってしまい、普段通りの実力が発揮できるわけもなく、コンクールはいつも予選落ちであった。

 そうそう、大勢の前でしゃべるのが苦手なのは今もそうである。
 何度か歯科の学会で発表もしたものだが、ナニをどうしゃべったか後で覚えていない。
2001/08/15 (水)

天狗になるな
 小学5年という学年はボクにとっていろいろな意味で「転機」と考えられる時期である。
 その後ず〜っと付き合いのある友人にも巡りあったし、何より当時の担任の先生には種々の影響を受けた。

 その先生の方針には周囲の声も賛否両論だったし、もちろんボクも受け入れられる部分と受け入れられない部分とがあった。
 でも「記憶力の良くない」ボクがフルネームで名前を覚えている先生で一番古い先生である。

 小学校卒業式の日の「サイン帳」にその担任の先生の一言ももらった。
 その一文は今なお脳裏に刻まれている。

 「素質と才能がある。天狗になるな
 裏を返せば、それまでのボクは「天狗になっていた」と思われてもおかしくない状態だったのであろう。思い当たるフシは沢山あった。

 一言で言うと「調子をこいていたガキ」という風情であったと思う。
 でもその一文がきっかけで、ボクは少し、ほんのちょっとだけオトナになることができたと思う。もちろん「引き換え」に失ったモノもあると思うが・・・
2001/08/14 (火)

転校
 札幌に越してきて、まずしたことは「歩き回る」ことだった。

 砂川というところは「ネコの額」ほどの広さしかなかったので、隅々まで歩いて行くことができた。
 小学校の頃はあまり広さの感覚がなかったのであろう・・・
 地図片手に歩ける範囲を歩いてみようと思った。

 実は昨日書いた「当時の住居」は今の住所と同じ場所である。
 比較的街に近いロケーションであるのだが、やはり歩ける範囲はタカが知れていた。

 それでも「自分の生活する生活圏」は知りたいと思ったのであろう。
 「冒険心」もちょっと持ち合わせていたと思う。

 札幌の小学校に越してきて、随分みんな都会的だなあと感じた。実際そうだっただろうし・・・
 オトナの都合だけで、あっちこっち転校して「固定した友人」ができない悲しさを味わったものである。

 それでも小学5年生になると、仲の良い友人もできてきた。
2001/08/13 (月)

当時の住居
 さて、一昨日はダラダラと過ごし、昨日は思い立って「砂川」に行ってきてちょっと疲れ、サイト更新をサボってしまった・・・

 父の仕事の都合で札幌に引っ越してきたのはボクが10歳の時であった。
 小学校4年生の時だった。
 砂川でも一度市内で転居しているので、約2年に一度の転校である。そのためそれまで小学校ではあまり「思い出」と言えるものが記憶に残っていない。

 札幌でまず住んだ家は、母方の祖父が所有していた古い建物だった。

 北海道の現在の住まいは、概して本州の建物とちょっと構造が異なる。
 防雪と防寒が徹底しているためだ。そして開口部が少なく、小さい。

 でも昔は違った。なにしろ、その昔の家には縁側があったくらいである。玄関も風除室などなかった。
 縁側の窓ガラスなども一重で、さらに室内と縁側を隔てるものは障子一枚であった。

 今思えば、よくあそこに住んでいたものだと思う。恐らく壁にウレタンやグラスウールなどといった断熱材も入っていなかっただろう。
 冬は滅茶苦茶寒かっただろうと思う。しかも夜は暖房を消す。

 明け方には室内でも平気で氷点下に達していたはずだ。
 でも当時はそれが普通だと思っていた。そう言えば、学校も朝は寒かった。
 それでも札幌で通った円山小学校はましだった。ボイラーによる集中暖房だったからである。

 なにしろ砂川の小学校では「石炭ストーブ」だった。あれは悲惨である。
 ストーブに近いとものすごく暑く、遠いとものすごく寒かったからである。そして石炭室に石炭を取りにいく当番があり、これがまた辛かった。
2001/08/10 (金)

日曜学校
 砂川の記述が長くなって、今後のバランスが心配だが、砂川のエピソードとしてまだ欠かせないことが残っているので書かねばなるまい。

 砂川に居るとき、「日曜学校」に通っていた。プロテスタントの教会である。
 教会と言っても名ばかりで、ものすごいボロい民家のカタチをしていた。

 毎週日曜日、妹と手を繋いででかけていた。
 特に家族ぐるみでキリスト教というわけではなかったのだが、恐らく親が「基本的な生き方」を教えるために通わせていたのだと思う。

 お祈りをしたり、賛美歌を歌ったり、クリスマスが近づくと遊戯や劇の練習をしたりしていた。

 親の思惑通り、ここでの体験はボクの人間形成に大きな役割を果たしたと思っている。
 まず、常軌を越えた悪いことはできない。
 何となく「悪いことはしてはいけない」という教えが体に染み付いてしまった。
 漠然とはしているが「正しいことは正しい、間違っていることは間違っている」という善悪の判断の拠りどころになっているのだろう・・・

 キリスト教そのものは「功罪」両面を持っていると思う。でも基本的な人間の生きる道の教えは間違ってはいないのだろう。

 数年前砂川を訪れたとき、小さいながらも小奇麗な教会に生まれ変わっていた。
 体感的に随分世話になった気がする。また訪れてみようと思う・・・
2001/08/09 (木)

ドライブ
 昨日書いた親戚の叔母さんは、東京の音大を出て、ドイツに渡った。そしてドイツ人の作曲家と結婚し、今もピアニストとして活動している。

 小学校2年の頃、父が自動車免許を取得し、自動車を買った。
 ニッサンのブルーバードであった。

 父の運転はおっかなかったらしく、母は決して乗ろうとしなかった。でも、時々母の目を盗んで、父はボクと妹をドライブに連れ出した。

 隣町の喫茶店に連れていってもらって、パフェを食べさせてもらえるのがすごく嬉しかった。その喫茶店名は今でも覚えている。
 「エビアン」という。父に聞いたら、その喫茶店は現存しているという。
 改装しているらしいが・・・

 ある日、父はボクと妹を乗せて、そこら辺にドライブに連れ出した。
 道路脇の田んぼのあぜ道に脱輪した。
 何をどうやっても脱出できなかった。どうやって助かったか判らないが、家に戻ると、父はこっぴどく母に叱られていた。

 そしてドライブ禁止になった。
 しばらくして、父は運転免許を捨てた・・・(って言うか更新しなかった)
2001/08/08 (水)

札幌
 ピアノはとにかくかかさず、毎日練習していた。
 母親も勉強しろ、とは言わなかったがピアノの練習をサボることは許されなかった。

 相当後になってようやく気づいたのだが、親はボクをピアニストにしたかったらしい。

 モノゴコロ付くか付かないかの頃から鍵盤の前に座っていたので、自分でなぜピアノの練習をしなければならないか?などといったことに疑問を挟んだことはなかった。

 教則本を一冊終わる毎に「好きな本」を一冊買ってもらえる、という約束をしていた。
 そして、先日も書いたが2週に一度札幌に出られたのは嬉しかった。

 砂川はものすごい田舎だったので、札幌は驚くほど都会だった。
 ボクが小学校低学年の頃は、ちょうど札幌オリンピックの頃であり、札幌も目覚しく発展しつつある真っ最中であった。

 人口は今の半分くらいだっただろうか?政令指定都市になるかならないかだったと思う。もちろんセイレイシテイトシの意味合いが何なのかを知る由もなかった。
 きっと大きな都市の称号なんだろうなあ・・・と思っていた。

 東京に親戚がおり、夏休みなどに時々遊びに行ったが、東京の都会ぶりは札幌どころの騒ぎではなかった。原宿に「キディランド」というおもちゃ屋があったが、ビル丸々おもちゃ屋という規模に度肝を抜かれたものだった。

 そして夏休みに東京に行ったらピアノの練習はどうしていたかと言うと、その親戚の家にもちゃんとピアノがあり、やはり練習は一日たりと欠かせなかった。
2001/08/07 (火)

低学年の頃
 小学校低学年の頃、ボクはあまり誉められた人間像ではなかったと自覚している。
 とにかく落ち着きがなかった。(今でも一箇所にあまりジッっとしてはいられないが)

 もし、ボクが現代で小学校低学年であったなら「多動性なんたら障害」なんてレッテルを貼られていたかも知れない。

 とにかく先生のハナシをまるで聞いていなかった。
 でも授業中、立ち歩くわけでもなく、おしゃべりするわけでもなく。
 じゃあ、何をしていたかと言うと、いつもノートに落書きを書いていた。
 ホント1〜2年の頃は黒板をノートに書き写すなんてことは一度もした記憶がない。

 あるいは授業に関係ない、教科書のページを勝手に読んでいた。

 そして、予習復習などと言ったことは一度もしたことがなかった。
 家でも勉強はしなかった。
 それでも体育を除くおよその教科でそこそこの通知箋だったように記憶している。

 体は弱かった。しょっちゅう学校を休んでいた。
 50日近く欠席し、危なく1年から2年になれないところだった。(規定で50日以上欠席すると留年らしかった)

 そうそう、幼稚園に行かなかったボクにとって、集団で何かをするということは非常に苦痛なことだった。今でもそうだけど・・・
2001/08/06 (月)

ホッチキス
 昨日は天気も良かったので、日誌の取材で砂川にでかけようと思ったが、ちょっと面倒臭かったので、辞めた。
 来週でもでかけよう・・・

 小学2年のとき、ちょっと引越しをして、砂川小学校から砂川中央小学校というところに転校になった。
 転校して間もなく校庭のブランコから落ちて、頭にブランコが降ってきて、後頭部にブツかった。

 頭を15針縫う大怪我を負った。

 髪の毛で隠れているが、今でも傷跡はあるはずだ。
 すぐさま市立病院に運ばれ手術を受けた。まあ、手術と言っても縫うだけだが・・・

 皮膚や粘膜を縫う器具を「持針器」という。針を付け外しするとき「パッチン」という大きな音がする。
 後頭部だったので、ナニをされているのか判らない。
 時折パッチン、パッチンと音がするだけである。麻酔なんかしてくれなかった。
 そして、ボクは朦朧とした意識の中で「ああ、ホッチキスで留めているんあだなあ」と思っていた。そういう音だったのである。

 それが持針器という道具を使って「縫った」ということが判ったのは、大学に入って「持針器」という道具を知ってからである。
2001/08/04 (土)

ピンネシリ
 砂川はいいところだった。
 西側にピンネシリという格好の良い山がある。どんなカタチの山だったか定かに覚えてはいないが、とにかくカタチのいい山だった。

 標高は1100mと、今思えば大した高さではないが、コドモの頃にはそれよりはるかに高く感じていた。

 6歳になると、当然小学校に入学するが、入学した砂川小学校の校歌にもこのピンネシリが歌い込まれていた。

 ボクはその後転校を繰り返し、砂川小学校を含めて小学校3校、中学、高校、予備校、大学と通うことになるが、最初に入学した砂川小学校の校歌が一番優れた校歌だと今でも思っている。
 そうそう自動車学校も通ったが校歌があったかどうか覚えていない。

 砂川小学校の歌詞はすっかり忘れているがメロディーは未だによく覚えている。
2001/08/03 (金)

ピアノ
 ほとんど一人で遊んでいたような気がする。
 しかも家の中で絵を描いていたり、ブロックで遊んでいた。

 たまに外で近所の子と遊ぶこともあったが、何をして遊んでいたか、記憶にない。

 小学校に上がるまでの記憶はそんなものである。しかもかなりオボロゲである。
 ピアノを始めたのもその頃だったようだ。

 母が情操教育に、と始めさせたらしい。
 毎日練習させられ、辛い思い出しかないが、2週に一回札幌までレッスンを受けに来た。これが嬉しかった。

 当時はまだ砂川:札幌間は電化もされておらず、ディーゼルも走っておらず、蒸気機関車だった。
 しかも、砂川は「市」でありながら特急の停まらない駅で、いつも「急行」だった。

 今の急行に比べると、信じられないくらいボロい列車だった。シートも硬いし、当然禁煙車両もないし、床もものすごく汚かった。
 それでも汽車というものはそんなものだとみんな思っていたに違いない。
2001/08/02 (木)

幼年期
 札幌に生まれた。その後3歳くらいまで、父の仕事で北海道内を点々としたらしい。
 当時の記憶はない。いわゆる物心がつく以前のことである。

 当時の写真を見るとこれが、カワイイ。我ながら。今とは似ても似つかない。
 一つ違いの妹がいる。
 ちなみにどちらもフォースは備わっていない。

 ボクは小さい頃から食が細く、痩せていた。今とは似ても似つかない。

 3歳の頃、父の仕事で「砂川市」というところに落ち着く。この頃から少しずつ記憶がある。
 当時、砂川は活気の交錯する町だった。少しヤマの方に「上砂川」というところがあり、その奥には歌志内という市がある。どちらも炭鉱のマチだ。
 しかし、もう石炭産業は斜陽だった。

 代わりに、砂川では「東洋高圧」という会社があり、これが発展しつつあった。
 肥料を作っていると教えられた。これが、風向きによっては結構臭かったりした記憶がある。

 なぜか幼稚園へは行かなかった。もちろん保育園にも。
 あとで母に尋ねると「幼稚園に行くかい?って聞いても行かないと言った」と答えた。つまり自発的に幼稚園には行かないという選択をしたらしい。どうして行かない選択をしたのか判らないが、当時人付き合いが苦手だったと思う。

 今も人付き合いは、あまり得意ではないが・・・
2001/08/01 (水)

マリリン・モンロー
 今月は医療的なテーマからちょっと離れる。たまたま今月誕生日を迎えるということもあり、半生でも振り返って反省でもしようかな?と思う。

 あまりズバリとハッキリさせても面白くないので、少しボカして書くが、生まれたのは1960年代前半の8月5日である。

 どうしても生年月日を正確に知りたい方には「ボクの生年月日はマリリン・モンローの命日とずばり一致する」と書いておこう。
 この事実を知ったのは最近である。

 関東の方で「マリリン・モンロー展」というのをやっていたらしい。
 何気にコマーシャルを耳にして「どうしてボクの誕生日を言っているのだろう?」と画面を見るとマリリン・モンローが亡くなった日だということがわかったのである。

 だからと言って「ボクはマリリン・モンローの生まれ変わりである」と主張する気はさらさらない。

2000年: 7月号 8月号 9月号 10月号 11月号 (以上、雑記)
2000年:12月号 「カレンダーと時間のナゾ」
 (筆者イチオシの力作です)
2001年: 1月号 「バカは風邪ひかない、と進化論」 
2001年: 2月号 「歯はなぜしみるのか?」
2001年: 3月号 「僕のIT革命」 (閲覧者の反響が高かった月です)
2001年: 4月号 「医療と経済」
2001年: 5月号 「歯医者の独り言」
2001年: 6月号 「小児歯科について」 
2001年: 7月号 「医療とは何か?」