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=院長日誌補足=
「院長の知ってどうする過去」
2001/09/30 (日)

ケーブルテレビ
 昨日、ケーブルテレビのネット接続の勧誘に、矢も楯もなく契約してしまった。
 しかも、工事は明日の午後という。

 でも、「LANケーブル用意しておいて下さい」と言われたのをすっかり忘れていた・・・実はLANってよく判っていない。今のパソコンにLANボードというモノが入っているのかどうかも把握していなかった。

 もしかしたら、ネット接続の「端子」を目の前にしながら、明晩は途方に暮れているかも知れない。でも、ケーブルの端末からパソコンに繋いで設定までしてもらうと、「1万円かかる」という。

 勿体ない・・・
 明日診療が終わったら速攻でヨドバシにLANケーブルを買いに走ろう。
 そして・・・上手く繋げなかったら・・・ネット上の師匠に尋ねよう・・・

 あっネットに繋げないと、ネット上で質問できないな・・・
 でも大丈夫「ダイヤルアップの接続」も継続してあるので。
2001/09/28 (金)

電解中性水
 実は「ウチで自慢の一つにしている」電解中性水を診療室全般に回して使う、というシステムを構築してくれた会社が倒産してしまった。

 どうも、システムに小さなトラブルが頻発し、それに対応しきれなくなったようなのである。もっとも一種のベンチャーのような会社だったので、まさかとは思ったが冷静に考えると、あながち考えられなくもなかったことかも知れない。

 考えられないような大きな会社すら倒産する時代だから・・・

 さて、小さなトラブルとは「歯科で使う椅子(ユニットと呼ばれる)」の中の配管が電解中性水で徐々に融解するというトラブルだったようだ。
 また、その電解中性水を回すポンプの異常も頻発していたらしい。

 ところが、ウチでは何も異常が起きていない。配管のホースも何ともなければ、ポンプにいささかの異常もない。
 倒産する寸前、その会社のメンテナンスの人が「どうしてお宅ではトラブルが起きないんでしょう?」と、むしろ首をかしげていたくらいである。

 とにかく北海道内でその装置を取り付けた50軒ほどの歯医者で、何のトラブルも起きていないのはウチを含めた2軒しかない、ということだった。

 実は僕には思い当たるフシがあった。その会社が「推奨する使用法を励行していなかった」のである。今思えば、この勝手な使い方がシステムを無傷に保つ要因だったのではないかと推察した。

 早速その「僕流の使い方」を会社に進言しようと思った矢先に倒産してしまった。
 今後、恐らく同様のシステムは生まれないであろう。
 でも、ウチは使い続ける。なんと言っても、ほとんどの細菌・ウィルスを死滅させる夢の水なのだから・・・
2001/09/27 (木)

空と引き替え
 今、ウチの向かいで15階建てのマンションが竣工間近である。
 昨年12月には、その隣に15階建てのマンションができて、75世帯の方々が入居してきた。
 その裏でも13階建てのマンションが建築予定となっている。

 そう、なぜかここら辺りはマンション建築ラッシュとなっているのだ。
 もちろん歯科医院過剰と思われる地域なのだが、人口もまた勢い良く増えてくれているのだ。

 来月初めには隣に小児科の医院がオープンする。
 これも明るい材料である。小児科がテナントで入る建物の上階には元々「人工透析クリニック」がある。
 医療機関が集約すると、相乗効果が期待できる。

 と言うわけで、医療を取り巻く環境は今後どんどん悪化していくだろうと思われるが、ウチは楽観視している。

 まわりにどんどん高い建物が建っていき、空がだんだん見えなくなってしまった。
 引き替えに当院の展望が見えてくれればいいのだが・・・
2001/09/26 (水)

 (昨日は体調不良のため、休載させていただきました)
 実は「過去」について書いてきたつもりなのだが、ハナシが相当現在に近くなってしまって、もう過去ことが・・・いや書くことが尽きたような気がする。

 それで、今ナニをしているか?そして今後どうなるか?を書けるだけ書いてみようと思う。

 現在、何人くらいの患者さんが来ているかといことは、業務上のヒミツである。
 まあ、僕にとって多からず、少なからず、といったところだろうか・・・まあ、もう少し多くても大丈夫ではあるが・・・

 実はあんまりじゃんじゃん混んでも困る。一人一人に丁寧に説明する時間も欲しいし、スタッフ共々仕事が雑になりはしないか?という懸念が生じる。

 それに「焦ってやる仕事」がまともにできるはずがない、と思っている。
 患者さんのアポイントは原則30分に一人である。もちろん30分で終わらない治療がほとんどであるから、若干オーバーラップはする。
 まあ、保険主体の治療ではそれ以上ゆるいアポイントでは採算が引き合わなくなる。

 札幌市内としては、恐らく患者さんの数は平均よりは少ない方だろう。
 でも、だからと言って決して焦ってはいない。
 とにかく信念を持って、「自分としてできる限りの治療を尽くす」という姿勢でやっていれば、いつか必ず「患者さんが患者さんを呼んでくれる」と信じているからである。

 現に「○○さんの紹介で来ました」という患者さんが多い。
 必ず紹介して下さった方には礼状を書いている。紹介して下さる方は神様である。
2001/09/24 (月)

インターネットにはまる
 二年目に入ってもそんなにじゃんじゃん混み出す気配はなかった。
 ただ、細々とではあるが「新患の来るペース」は実にコンスタントだった。それは今でもそうである。

 人口が比較的増加しつつある地域かも知れないし、ある程度「口コミ効果」も上がってきているのではないかと思っている。

 二年目に入り、2000年問題が結局何も起こらないことが判った僕は、さてインターネットでも始めようか、と思った。ここら辺のいきさつは3月号 「僕のIT革命で詳細に書いたつもりである。

 でも、つくづく最近思うことがある。インターネットを始め、サイトを立ち上げ、ある意味「出会いの機会」は格段に増えたなぁ・・・と感じるのである。
 全国各地から質問メールは寄せられるし、ご意見・ご感想もいただく。
 ホームページを見て来ました、という患者さんも今では「日常」と化してしまった。

 表現は悪いが「ここも出会い系サイトの一種かな?」なんてフト思うこともある。もっとも「歯医者と患者さんの出会いの場」ではあるが・・・ちなみに本来の意味での「出会い系サイト」というのは覗いたことはない。

 そうそう、患者さんが「ウチにもホームページがあります」といった方もいて本当に驚いたことがある。それがまた立派なホームページなのである。
2001/09/22 (土)

西暦2000年問題
 開業した年は1999年だった。ハンパだけど仕方がない。
 世間では「世紀末ブーム」だった。本当の世紀末は2000年なのだが、ノストラダムスの影響だったのであろう・・・

 しかも折からコンピュータ2000年問題が騒がれていた。
 ボクも心配性なので、無事2000年を迎えることができたら、パソコンを買ってネットに参入しようとおぼろげに決めていた。

 そうそう、2000年問題で「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のが人間である。
 ボクは今のうちから人類に警告しておきたいことがある。

 今現在西暦は4桁で表示、計算している。7999年後、大変なことが起こるだろう!
 「西暦10000年問題」である。
 その時が近づいて慌てないように、前々から準備して欲しいものである。

 まあ、その時まで人類が今のペースで繁栄していれば、の話しだが・・・
2001/09/21 (金)

最初の一年
 開業した当初はえらくヒマだった。
 いわゆる「出足が鈍い」という状態である。これは覚悟していた。
 なにせ半径250Mで14〜5軒である。ほとんど周辺の患者さんは「行きつけ」が決まっているはずだった。

 そこを敢えてウチに来てくれるというのは「引っ越しか何か」で近所に最近越してきた方か、あるいは周辺の他の歯医者に「大きな不満を抱いている」患者さんでなければウチには来ないはずである。

 患者さん一人に対する時間もたくさんあるので、徹底的に丁寧に治療した。
 他にも「数々の秘策」や独自の小さなアイディアがあるが、ここで披露するのはもったいない。他の歯医者ではまずやっていないだろうと思われるアイディアもある。
 これは患者さんにとっても、経費節減にとっても優れた効果があると自画自賛している。

 最初の一年目は本当にヒマだった。でも全く心配はしていなかった。ナゼなら「開業前のマーケットリサーチ」でこのくらいの患者数が見込めるだろう、という数字とほぼ同数の平均患者数があったからである。(と言っても実は一日一桁なのであったが)

 あとは、一度来てくれた患者さんに「完全な口コミ源」となってもらえば良い。また、その自信もあった。信念を持ってやっていたからである。

 また、最初ヒマで、その後徐々に患者さんが増えてくるというのは「スタッフ教育」にとっても好都合だった。最初からじゃんじゃん来ると「丁寧な接遇」ができなくなりがちになってしまう。
2001/09/20 (木)

通販生活
 あれよあれよという間に開業の日を迎えたのであるが、全ての作業は「初めてのこと」ばかりであり、大変だった。
 開業は年明けそうそうの予定だった。

 約10日前になって「スリッパをファックスで注文していた通販業者」がそんな注文は受けていないと言いやがる。
 もうどうしようもないので、市内の名入れスリッパを作る業者に片っ端から電話をかけた。
 ところが年末ギリギリである。どこも「年明けそうそうの納入は無理」と断られた。

 一軒、なんとか頑張ってみましょう!という業者があった。
 地獄でホトケとはまさにこのことだった。あの業者には今でも感謝している。

 あと、移動式のワゴンも通販で買ったのだが、「組立説明書」が入っていなかった。結構複雑な構造で、組立に自信がなかったので、電話した。組立説明書が入っていなかったので、至急ファックスで送ってくれって・・・

 そしたら、「製造業者が既に年末年始の休みに入ったので、組立説明書は年明け中旬じゃないと送れない」ときたもんだ。

 アッタマきたけど、電話のオペレーターに当たってもラチがあかない・・・
 仕方がないので、組立説明書なしで組み立ててみた。

 最後まで組み立て、当然「木工用ボンド」で接着して組み立てる。やれやれと思って梱包の箱の中をみると、なんだかでっかい板が一枚余っている・・・
 どうも、中の補強用の板のようだ・・・組み立てた後ではそれを組み込むことは不可能だった。

 今でもそのワゴンは「壊れて」こそいないが、ギシギシときしむ。
 通販はこりごりだ。
2001/09/19 (水)

筐体の完成
 建物は一度造ってしまうと、後で大きな変更はできない。
 それだけに気合いが入らざるを得なかった。
 予算もオーバーしてしまい、その分「歯科機材」にしわよせが来た。

 でも歯科機材業者の協力もあって、一部中古で揃えてなんとか予算内に納めた。

 建築現場はほぼ毎週休日毎に見に行った。大工さんたちは寡黙な方たちだったが、確かな職人気質をもった人たちであった。
 毎回、ジュースやお菓子を差し入れた。少しでもいい仕事をしてもらいたいと思ったためである。

 建て始めから約6ヶ月かかって筐体はできた。

 設計やらプランニングやらを面倒くさいというヒトがいるが、僕は最高に面白い6ヶ月だった。そして、十分満足のいく結果が得られたし、いくつかの小さな不満がないわけではないが、それも「自分で十分プランニングに参加した結果」ということで変に納得してしまっている。

 建物が竣工し、引っ越しもドタバタと終え、いよいよ開業準備も大詰めに入る。
2001/09/18 (火)

設計
 ここからが面白かった。
 ちょうど健康保険の社保本人負担が1割から2割にアップし、さらに僕が分院長をしていた歯科医院の比較的近所に新しい歯医者が一軒できて、ちょっとヒマになったということもあって、僕は図面書きに没頭した。とにかく患者さんを診ている時以外は図面を書いていた。

 昔からプランを練ったり図面を書くのは好きだった。
 「有名なホームビルダー」、「歯科医院経験豊富な工務店」、「早く安く作る工務店」、「遅くてちょっと高めだけど高級な建築をする工務店」にプランの作成を競わせた。

 敷地が妙な台形をしていたし、駐車場を設けると建物部分は敷地一杯一杯に作らざるを得ず、設計は困難を極めた。削られた10坪が恨めしかった。

 結局、見積もりは一番高かったし、工期も一番長い提案だったが、自由度の高さから「高級な建築をする工務店」と契約した。今一つのメリットは建築予定地と、その工務店が至近距離だったということもある。後々クレームなどに迅速に対応してくれるだろう、という目論見があった。

 僕は「月並み」な設計は絶対イヤだった。まず他にない歯科医院を作りたかった。
 「医院建築」という専門雑誌で「歯科医院特集」があり、隅々まで目を通した。
 でも、それはバブル絶頂期に建てられたモノばかりで、参考にはなったが予算が許さなかった。

 僕も必死で変わった図面を書き、設計士さんも負けじとその変わった図面を「実用性を持たせた図面」に描き変えてくれた。

 そして、建築が始まったが、大工さんには苦労をかけたことと思う。何せ医院部分は「ほとんど直角がない」という建物だったからである。 

 

 坪庭は僕のアイディアである。しかも庭の土の面と、診療室の床面を同じ高さにした。これは入り口にほとんど段差のないバリアフリーの意味合いもあったが、結果「基礎より床面が低い」というこれまたやっかいな構造となってしまった。

 そんなに広くはない診療室だが、自分では敷地を最大限に生かした、最高の器ができたと思っている。
2001/09/17 (月)

面白い開業地
 降って沸いた開業候補地とは「現在開業している場所」である。
 実は父がここで一種の商売をしていた。しかも土地は父名義である。その時点ですでに店じまいしていた。

 その土地に突然、道幅を広げるので土地を10坪「市に差し出せ」「建物を撤去せよ」という勧告が来たのである。
 僕と両親で何回も担当者と話し合いになり、当然「補償金」を受け取り、両親はとっととこの地を離れることにしたのである。

 残った約60坪の土地に新たに建て替えて歯科医院をやることは可能は可能である。だが、問題がひとつ。周囲に歯医者がゴロゴロしている場所なのである。
 約50メートルの距離に二件、半径250メートルに約14〜5件はあった。

 しかし、土地代やテナント代がかからないことはメリットである。
 しかもギリギリ駐車スペースも数台分設けることができる。

 しかも元国道に面しているという好立地条件だ。

 だが、多くのヒトに反対された。両親は当然反対したし、マーケットリサーチをしてくれた歯科関係の業者のヒトも反対した。
 
 でも「攻めてみる」ことにした。札幌市内、あるいは近郊なら「どこでやっても同じだろう」という心境もあったり、なにより「土地が担保」になって銀行から融資を受けられるというのが最大の魅力だった。
2001/09/16 (日)

開業計画
 分院長は約3年間勤務させてもらったが、やはり途中からは「開業」を意識して準備に入ることとなる。
 ここからが大変だった。

 どんどん景気が悪くなっている時期だったからである。
 オマケに「金融機関」の状態も悪化しつつある時期で、いわゆる「貸し渋り」絶頂期だったからである。
 公定歩合などから金利は低いはずだったが、「オモテだった低金利」は本当に優良な貸付先向けだった。

 勤務していた分院の近くの銀行に足繁く通った。
 何度も「開業計画書」を書き直させられた。「通常の想定」、「通常よりも悪い想定」、「通常より良い想定」の3パターンの計画書を書かされた。
 通常よりも悪い想定でも「プラスの収支」にならないとお金を貸してくれない雰囲気だった。

 開業候補地もあっちこっち探して歩いた。札幌及び近郊である。
 およその開業予定地を決めて、電話帳片手に地図に既存の歯科医院をすべてプロットした。
 そして、「空きがありそうな」土地を見つけると、そこを見に行った。

 驚いたことに、そこにはすでに新たな歯科医院ができていたり、あるいは建設中だったりした。

 要するに「歯科医院が手薄な土地はない」、そして一見手薄に見えても「誰かが同じ様に狙って入っている」ということが如実に判った。

 途方に暮れていたところに、降って沸いた「面白い候補地」が現れた。
2001/09/15 (土)

分院長経験
 (昨日は、パソの不調で更新が滞りましたことをお詫びいたします)

 さて、札幌医大の口腔外科を辞して就職したのは、札幌近郊の開業医だった。
 今までは「小児歯科」、「口腔外科」を渡り歩き、「一般歯科」というジャンルがやや手薄だったため、その開業医でもいろいろと勉強になった。

 特にそこの院長は「補綴」といって、入れ歯やブリッジを専門にされてきた先生だったので、特に僕の今までの不勉強だったジャンルを勉強しなおすのに最適だったかも知れない。

 さらに、それまでは比較的「おおやけ」の総合的な病院だったので、個人経営の歯科とはどうあるべきか、を学ぶにも最適だった。
 「あこぎ」なことをする先生ではなかったので、いかに保険内で治療をまかなうか、という点でも多いに参考になった。

 また、いろいろコスト削減にまつわるテクニックも垣間見ることができてよかったと思っている。

 そして、約半年後にそこの医院の分院で分院長を任せていただくことになった。

 約3年間の雇われ院長であったが、これがまた非常にいろいろと勉強になった。
 ある意味で「開業」のシミュレーションにもなったし、好きな歯科材料を使わせてくれたので、自分にとって使いやすい歯科材料を模索するいい機会でもあった。
 そして、自分一人で診療する「自分のスタイル」を徐々に身に付けていくこともできた。

 札幌の自宅からちょっと離れていたので、通勤がちょっとしんどかった。
 夏場は30分くらいで着くのだが、冬は一時間、大雪が降るとそれ以上かかることもあった。
2001/09/13 (木)

タメになった3年間
 札幌医大の口腔外科も2年目に入ると、少しずつ口腔外科という環境に慣れてきた。それまで専ら手伝いだった研究も、上の先生からテーマを与えられ、ちょっとずつやることになった。

 で、何をしたかと言うと「顎の筋肉の研究」だった。
 噛み合わせの極端に悪い人と、正常の噛み合わせの人との比較である。

 色々な患者さんの筋電図を調べたり、噛む力を調べたり、顕微鏡で調べたり・・・夜遅くまで研究室で研究したりしたものだった。

 一応、3年目にかけて学会で2度発表させてもらった。ズバリの結果は出なくて、さらなる続きの研究や論文にまとめたりしなければならなかったのだが・・・

 一身上の都合により、その講座も辞すこととなる。別に嫌になったわけでもないし、なかなか居心地も良かったのではあるが・・・やはり、そのままそこに在籍し続けても生活していくには大変だった、という意味合いもあった。

 しかしながら、講座そのものはいろいろ勉強になったし、様々の大学出身の上の先生がいたので、「様々の治療法」を目の当たりにできたというのも大きかった。

 何より、全身麻酔でやる色々な「大手術」に入らせてもらうことができたのも、非常に大きな経験となった。それこそ、顎の骨を切って移動させるような手術や、口から首にかけてのガンなど、何時間も立ちっぱなしで身近で介助させてもらった。また、自分でも全身麻酔での比較的簡単な手術を数例経験させてもらった。

 そういった経験は普通の歯科医師ではなかなかできないものではある。
 全身管理の勉強という意味合いも込めて、本当にタメになった3年間であった。

 講座の教授、諸先輩にはこの場を借りて感謝したい・・・
2001/09/12 (水)

口腔外科
 岩手医大の小児歯科も忙しかったが、札幌医大の口腔外科も忙しかった。
 まるで野戦病院のような趣だった。

 半年交代で外来勤務と病棟勤務だった。外来の場合は、朝から昼ころまで、外来で患者さんを診る。昼過ぎからは「外来小手術」、そしてそれが終わると先輩たちの研究の手伝いだった。

 病棟勤務の半年は、朝点滴をし、昼まで入院患者さんの処置、午後はまた処置が必要な患者さんを診たりいろいろ雑用、夕方点滴をしたらだいたい終わり。
 それから、必要があれば先輩の研究の手伝い。夜遅くまでかかることもあったが、さすがに休日出勤は命じられなかった。

 一年目はざっとこんな感じだった。そして基本的には大学からは給与はなかったが、休日の日直、夜間の当直に対しては手当てがついた。
 普段の日当も確かあった気がする。微々たるものだったが・・・

 それでも以前の無給よりはマシだった。
 そして、半年ほど経過し、ある程度一通りの基本的な治療ができると認められ、その後道内の各地の「出張先」へ時々出させてもらった。

 最初の年は一ヶ月ずつ、登別と熊石と津別に行ったかな?
 いずれも北海道のあっちこっちの端っこの方であり、いずれも町に信号が一本しかないようなところであった。

 それでも出張にいくと、月20万円ほど手にすることができて、ありがたく感じた。
2001/09/11 (火)

札幌医大
 小児歯科は、勉強にはなったが、ちょっと身が持たなかった。
 しまいには体がついていかなくなり、精神的にもちょっと負荷がかかりすぎ、夜逃げすることにした。

 辞めさせて下さい。とは口頭では意思を伝えたが、夜逃げ同然に札幌に戻ってきた。戻ってくるフェリーから朝日を見た。この光景は忘れ得ぬものである。

 そして、札幌に戻ってくることが嬉しくてしょうがなかった。

 出身大学のとある先生にもちょっと根回ししてもらって、戻って来たその足で札幌医科大学の口腔外科に入局した。

 口腔外科は「何でもやる」し、今までコドモしか診てこなかったので、オトナも診れる環境に身をおきたかったという理由もあった。でも、自宅から程近いというのが最大の理由ではあった。

 とりあえず夕方、医局に挨拶しにいった。その時の光景も忘れ得ぬものである。

 初老の教授が向かえてくれた。
 ちょうど手術日だったらしく、手術が終わって医局に上がってきた教授は、「君が辺見君かぁ!まあ、掛けたまえ」と大きな声で言ってボクにグラスを持たせた。

 そして、有無を言わさずそこにビールをなみなみ注いだ。そして自分の手のグラスにもビールを注いだ。
 「○○先生から推薦状をもらっているけど、ここではそんなものいらないんだヨ。まあ、頑張りたまえ!」
 そんな言葉をもらったボクは涙が出るくらい嬉しかった。

 実は盛岡を去るとき、精神的に参っていて、もう歯医者は辞めたいとまで思いつめていたものだったが、またやり直すことができそうだ、と心新たにしたのであった。
2001/09/10 (月)

小児歯科講座
 学生時代はつつがなく過ごした。いろいろあったことはあったが、披露できるほどのエピソードはなかった。

 卒業して、最初に在籍させてもらったのが、卒業した大学の「小児歯科講座」である。まあ、卒後の進路は「開業医」に勤めるか、大学に残るか、に大別される。
 大学に残るにしても「医局に残って臨床中心で学ぶ」か「大学院に進学し、博士になるように研究する」という道はあったが・・・

 とにかく「まあ、博士になってもメシの種にはあんまりならんだろう」と思って医局に入局したわけである。

 小児歯科講座にはたった2年間しか在籍していなかったが、この2年間がボクの人生で一番濃い期間だったかも知れない。

 今、問題となっている「無給研修医」の問題が脳裏で重なるが、それほど早朝から深夜まで働いた。時に休日でも電話で呼び出されることもあった。そして、大学から給与はなかった。
 当時はそれが「当たり前のこと」とされていた。

 なぜなら、極めて封建的な考え方が支配する世界であり、「技術や知識を伝授してやるんだから、タダ働きは当然」という空気だったのである。

 あるいは「卒後1年や2年で何ができるのか?そんな役に立たないモノの働きはタダ働きで当然」ということもあったのかも知れぬ。

 そして、もちろん、それは承知の上だったので、それが普通だと思っていた。

 また、得られた技術や知識、考え方は「小児、成人に関わらず」今なお役立っており、教えてくれた先生に感謝はしている。
2001/09/09 (日)

学問
 学問というものは、興味を持って取り組めば非常に面白いし、ただ「やらなければダメだからやる」とか「試験に受かるために勉強する」ということでは、全然面白くはない。
 ボクはどちらかと言うと大学で勉強していた時は、後者の意識で取り組んでいたかも知れない。

 先にも書いたが、実は「歯学部」に入学した時点では、ボクは「歯医者になりたい」という強い希望があったわけではなかった。
 まあ、資格を身に付けておけば食いっぱぐれることはないだろう、くらいの軽い気持ちだったかも知れない。でも、それは後に考えた結果論で、入学時点ではほとんど「何も考えていなかった」かも知れない。

 そして、これは最近気づいたことなのであるが、学問は時と場合によるが、非常に融通が効かない性質のものである、ということである。
 学問は非常に細かく細分化されている。
 そして、その体系を一元化して管理するということはあまりなされていない。

 極端な場合、片方の「学問」では「正しいとされること」が別の学問では「間違ったこと」とされてしまうケースもある。
 そしてその時代その時代で「正しいとされること」は刻々変化することもある。

 大学で学んだ6年間は、もちろん知識や経験は取得し、そして国家試験というものに合格はしたが、それは終わりではなくスタートだったのである。そして、むしろそれからの方が俄然面白くなってくるのである。
2001/09/08 (土)

解剖実習
 3年目からはいわゆる「歯科医学」の専攻課程である。
 しかし、講義は面白いものではなかった。まず極めて「基礎」からの講義だった。今思えば、これまた物理同様、歯医者になるのにどうしてそんな知識が求められるの?ということばかりだったような気が当時していたが、後々ちょっと後悔することになる。

 例えば歯医者になるのに、「全身の解剖実習」が必要なんだろうか?などと思っていたものであるが、これはもっと真面目にやっていればよかった。
 もちろん不真面目な気持ちでしていたわけではないが、例えば「口腔外科」では極めて重要で必修の知識だったからである。

 一般的にはだいたい「顎周り」の知識があれば99%対応できるのであるが・・・

 それにその時点では「将来どんなジャンルに精通した歯科医」になるか、などと言った展望は描いていなかった。

 「解剖実習」は夜遅くまでかかったものだ。
 特に「頭頸部」に関しては銅線のような細ーい神経一本を見逃してもダメで、日付が変わるまでかかって解剖し、スケッチすることもザラだった。

 もちろん解剖だけしていた訳ではない。あと、石膏で歯の3倍大模型なんかも彫ったり、様々な組織を顕微鏡で覗いてスケッチしたりしていた。

 そして、もちろん種々の基礎医学の講義もあったが どちらかと言うと、知識として身に付けるということより、やはり体で覚えるということの方が記憶として残っているものである。
2001/09/07 (金)

院長先生
 「寮」は教養の2年間しか在籍できないのであるが、2年目には寮長を就任させられた。まあ、ちょっと歳を食っていたことと、「責任感がありそうだ、という雰囲気」から推挙されたと思う。
 別段、寮長だからといって、メリットはなかったが、寮生全体で行なうミーティングや諸行事などをまとめる役割だった。

 幸い大きなトラブルもなく、つつがなく1年間の任期を終えることができた。

 もともとあんまり「長」がつく肩書きはニガテである。
 今も「院長先生」と呼ばれることも多いが、特に「実名を知らずに院長先生」と呼ばれることに抵抗がある。

 よくセールスなどで電話がかかってきて「院長先生いらっしゃいますか?」と尋ねられることが多いが、スタッフが電話に出た場合は「今、手が離せません」と答えさている。
 しかし、診療時間が終わってスタッフが帰った後に医院の電話が鳴ると、ボクが出ざるを得ない。
 また、敵も診療時間終了時を見計らって電話をかけてくるケースも多い。

 最近、妙手を思いついた。
 ボクが電話に出て「院長先生いらっしゃいますか?」といかにもセールストーク丸出しだった場合、ボクが「院長は不在です」と答えるようにしたのだ。

 電話では確かめようがないので、相手はそれで「はあ、そうですか、ではまた」とスゴスゴ電話を切ってしまう。
2001/09/06 (木)

弓道部
 さて、大学に入ってまずは骨休めして、教養2年間くらいはのんびりと過ごそうと思っていたが、間違いだった。

 部活などする気はさらさらなかったのに、様々なクラブの強引な勧誘を受け、小心者だったボクは「様々なクラブの強引な勧誘を断るため」弓道部に入部した。本気でやる気はさらさらなく、そのうち辞めよう辞めようと常日頃思っていたのだが・・・

 同学年で何人かの男子と女子が入ったが、ボク以外の何人かの男子は数日経つうちに続々辞めてしまい、気がつくと「オトコはボク一人」という悲惨な状態になっていた。

 人生にはいろいろな岐路があるものだが、この時の選択は「後々まで様々な影響」を及ぼすことになるとは夢想だにしなかった。

 そして、寮、学校、部活、そして飲みに繰り出すという悪循環の日々が始まった。
 そこに「自分の時間を持つ余裕」はほとんどなかった。

 ありがたいことに休日まで弓道部の先輩はドライブに連れていってくれたり、飯を喰いに誘ってくれたりした。
 心を繋ぎ止めるのにあの手この手を使ったのだろう・・・

 まあ、ピアノをかつて習っていたことと、弓道をやっていたことで、なんとなく「カッコいい」というイメージを抱くかも知れないが、それが現実か、幻想かは「ボクを知る者」のみぞ知る、というところだろうか・・・
2001/09/05 (水)

理系?文系?
 大学は6年間だが、最初の2年間は「教養」を学ぶ。
 まあ、歯科医師として最低限の「教養」を身に付けるという主旨だろうとは思うが、面白くもあり、面白くなくもあった。

 英語や数学、物理といった教科はどう考えても高校の復習のようであったが、まあ、これは選択してきていない人もいただろうから、仕方がないことだろう。

 ドイツ語やラテン語もちょっとかじらせられた。医学用語や解剖用語などの用いられているためである。ただ、歯科医学の分野では通常用いられないため、現在ではほとんど、というか全く忘れてしまった。

 むしろ、心理学や人文社会学、哲学という講義は面白かった。
 それまでとくに興味がなかったのであるが、実は講義を聴いてみると面白いなぁと感じたものである。

 ずーっと自分は「理系のアタマ」なのかな、と漠然と思っていたが、実は「文系のアタマ」なんだろうか?と思える瞬間が何度かあった。

 哲学で読まされたベルクソンなんかは、今でもおぼろげに内容を覚えている。いや、その著者の名を覚えているというだけでも自分で感心する。
2001/09/04 (火)

寮生活
 第一学生寮は、大変古く、廊下を歩くと床がきしむような建物だった。
 トイレは汲み取り式、電話は公衆電話一本、部屋に電話は引けなかった。
 ご飯はおいしかったし、寮費は安いのはありがたかったが、かなり封建的で当時規律の厳しい寮であった。

 寮の先輩は時々「夜襲」と言って酒を持って寮に乱入し、寝ているボク達を叩き起こし、酒を飲ませた。入寮当時はしょっちゅう飲み会があり、「潰れる」まで酒を一気させられた。
 恐らく今なら問題になっているだろうし、そういう風習が今でも続いているとは思えない・・・

 ここでは語り尽くせないエピソードがたくさんある。
 毎日何かかにかはエピソードがあったと言っても過言ではない。

 しかし、妙な連帯感は生まれた。寮生みんなで朝は起こし合い、一緒に勉強し、合コンなんかもした。

 ひとつの部屋は四畳半であった。そしてカギを付けることは禁止されていた。
 困ったのは「マス」である。(下品なハナシですみません)
 途中で誰か入って来ないという保証はない。「仕事中」という隠語が生まれた。
 「仕事中」と書かれた紙をドアに張っておくのである。

 しかし、ある奴はそれを忘れてベッドで「仕事」をし、疲れて途中でそのまま寝てしまい、僕がそいつの部屋に入った時、モノを握ったまま寝ているのを目撃してしまったりしたこともある。

 今では彼も立派な歯医者をやっていることと思う・・・
2001/09/03 (月)

盛岡へ
 いろいろ紆余曲折はあったが、とある大学の歯学部に潜り込んだ。表現は悪いが、裏口からではない。

 ただ、当初の希望とは違っていたため、自嘲気味の表現である。
 できれば「工学部」に入りたかった。工業デザイナーになりたかった。そして、親が「医者・歯医者」関係の方面へ進学することを望んでいたため、若干の反発もあったことだろうと思う。
 一応早稲田の理工も受けてみたんだけどナ。拒まれてしまった。

 まあ、今となっては「済んだ事は済んだコト」。

 大学は岩手県の盛岡という県庁所在地にある。
 受験で訪れたときは驚いた。長く「北海道の道庁所在地」に暮らしたせいもあるが、よく言えば「風光明媚」、悪く言えば「田舎」という印象を受けた。

 どちらかと言えば、城下町として発展した盛岡の道は碁盤の目の札幌とは異なり、滅茶苦茶であった。太い「中央通り」が続いているなと思ったら行き止まりだったり、札幌では大通り公園というでかい中央分離帯を挟んで幅100メートルはある「大通り」が、盛岡では幅数メートルの一方通行だったりした。「5歩で渡れる大通り」と揶揄したものだった。

 また、中央資本の店がほとんどなかった。名の通ったデパートや名の知れたコンビニもなかったのである。かろうじてダイエーが存在していた。

 ただし、市内どこからでも眺められる「岩手山」は秀逸だった。川の流れもきれいだった。市内を走る車の運転も穏やかだった。

 そして、盛岡入りしたボクを待っていたのは「第一学生寮」というちょっと厳しいながらも愉快な寮生活だった。
2001/09/02 (日)

密かな誇り
 予備校へ通った。札幌駅北口に、当時東京から新たに進出してきたばかりの予備校だった。今風に言えば駅裏留学とでもなるだろうか?・・・

 最初は真面目に通って真面目に講義を受けていたモノだったが、じき飽きてきた。いろいろと遊びに行ってしまった。
 ボーリング場は近かったし、近所に新たにゲームセンターはできるは、駅の繁華街は近いはで「勉強する環境」とは程遠かったような気がする。

 しかし、全然後悔はしていない。
 浪人生活自体を含めて、そういう「もろもろなこと」があったからこそ、今の自分、そして今の境遇があると思っているからである。

 受験生にご法度とされる恋もしてしまったし、また、それが悲しい結末になりもした。

 また、PENTAXで知られている旭光学という会社が創立60周年を記念して「カメラデザインコンテスト」という行事をたまたま行なっていて、無謀にもこれに応募しようと思い立った。。
 まあ、一等賞金は300万円プラスカメラの賞品だったので、プロとか工業デザイナーを目指す人達が大勢応募したはずである。

 3ヶ月くらい受験勉強そっちのけで、メカニズムから考えた。もちろんボクはそういうことにシロートである。懇意にしていたカメラ屋に通ってメカニズムの資料を取り寄せてもらったりした。
 また、千葉の大学の工学部に入学した友人に応援も仰いだ。

 そして、ナント末等ながら3位に入賞してしまったのである。

 これは密かに今も我ながら誇りに思っているし、何よりその後そのメーカーから発売されたPENTAX 645というカメラがどことなく似たデザインだったので、「もしかしてちょっとは参考にされたかな?」とかって勝手に自負しているのである。 

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